今回イラクでテロリストに拉致されて殺害された方には、ご冥福をお祈りします。
「行くな」と政府からも勧告が出ていて、向かう前のホテルでもさんざん止められたにも関わらず、わざわざイラクに向かった挙句殺害された、という行動自体には、日本の一般国民の受け止め方はかなりクールなものだ。 それはとりもなおさず、この方が海外を放浪していた理由が『自分探し』と報道されているからだろう。
『自分探し』・・・・。
なんだろうね。 この言葉の持つ空虚な響きは。 使ってる本人たちも、単に自分の行動を肯定化するために使ってるだけだろうと思うよ。 『自分』を探すのに、なぜお金を使い、他人の世話になり、海外に行く必要があるのか。誰もが納得できる答えを持っている人が、果たしてどれくらいいるのだろうか。
でもね。 こうした若者たちの気持ち。 まったく理解できない・・・・わけではない。
特に今の若い人たちは、将来の展望をとても持ちにくい時代にあることは僕も想像に難くない。 いい大学に入っていい会社に入っても、将来の保証になんてならなくなっちゃったし、一生懸命働いて税金と年金納めても、自分に返ってくる期待も出来ない。 なによりそんな国にしちゃった政治家や官僚というものに不信感が強くてしらけてる。 望んでもいないのに情報が勝手に与えられて、あたかも自分たちはなんでも出来ると思い込まされてきたけど、ふと考えてみると何にも出来ない。 選択肢が多いけど、選択できる判断力をはぐくむ時間も教育も与えられてこなかった。
こうした環境を一度完全に断ち切って、ゆっくり考える必要があるんじゃないか・・・と考えるなら、理解できないこともないのだ。
でも・・・本当にそうなの?
誰だって目の前にある現実を一所懸命に処理しながら、その傍らでやっと夢や将来を語れる。 一所懸命に生きるその先に、初めて「将来」はある。 自分の将来を語れる存在、それが『自分』じゃないのかな。
だけど、そうした現実を自分だけは避けて、一足飛びに結果だけを手に入れる近道を、お金と人の世話によって探しているようにしか見えない。 「そんな方法は、実はないんだよ。」 彼らを取り巻く社会は、そう語って沈黙している。
あれこれ言い訳をつけて、目の前のつらさから逃れることだけを考える風潮を、少しは戒めて欲しい。 目の前の閉塞感を社会のせいにするのはたやすい。
でもね、バブルの時だって乱暴とも言える投機に走った人たちは皆、「みんなやってんじゃん」というのが言い訳だった。その後そういう人たちがどうなったかはこの15年間に見てきた通り。どんなに社会のせいにしても、その結果に対して社会は責任をとってくれない。自分に跳ね返ってくるだけだ。 逃げて、うまくかわせた・・・と思ったものが、何年も後になって背中から突いてくるんだよ。
「自分」なんてものは自分の中にいるもので、それは自分の中身と向き合うことでしか分からないものだと思う。 「何もできないけど、何かできるはずだ。」 自分の可能性を信じる、と言う言葉は実に甘美で美しい。
でも、ホントにそんなことをしなければ「自分」が見つけられないの? 「やりたいこと」がホントに「できること」なの? 「できる」だけの努力をしてきたの?
それくらいは分かってから自分を探して欲しい。
今回の彼が『自分探し』の末に見つけたのは、自分が異国ではかなく短い一生を終える、という事実だった。 あなたもお金と時間を使って人の世話になって、そんなことを探しに行きますか?
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